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1雲の切れ間の青空と上田市の車社会を物語る一枚雲の切れ間の青空と上田市の車社会を物語る一枚まだらな白い雲の切れ間に見える青い空がきれいです。上田市に住むうえでは車はほぼ必須。駐車場がびっしりと埋まっています。 長野大学の近くで撮影しました。都会や街中にキャンパスを構える大学と比べると長野大学へ車で通学する人が多いですよね。2023-05-09
2ぶしもりやめんめんぶしもりやめんめん上田市中之条にあるつけ麺専門店「ぶしもりやめんめん」に行ってきました。麺はもっちりとした太麺で食べ応え抜群。豚骨魚介スープは濃厚でとても美味しかったです。ボリューム満点ですが、麺の量を選ぶことができ、麺を少なめにしてトッピングを乗せたり、自分の好みに合わせられるところも魅力の一つです。私は角煮をトッピングしましたが、お肉たっぷりの「ミーツデラックス」や、野菜たっぷりの「ベジもり」など、メニューが豊富にあり、どれも美味しそうでした。2023-05-09
3本屋未満 NABO本屋未満 NABO上田市の街中から少し離れたところに「本屋未満 NABO」という古本屋カフェがありました。入口が少し奥にあって隠れていたのでわかりづらかったが、見つけたときはお洒落な入口だと思いました。中には、多種多様な古本やオリジナルグッズなどが売っていたり、読書をしながら飲み物を飲んだりもできます。店内に飾られているインテリアや照明も少し暗めで、心地良い空間でした。おしゃれで落ち着く雰囲気がとても好みでした。2023-05-09
4柳町通り柳町通り柳町通りは、古い町並みの残る城下町として親しまれています。この通りには、古民家カフェや地元の特産品を使用した食べ物のお店などが並んでいて、上田市のグルメを楽しむにはとても良いスポットだと思いました。2023-05-09
5海野町商店街周辺海野町商店街周辺駅のすぐ近くや少し離れた商店街通りには、色々なお店があったが、シャッター街にもなっているところはあるなと思いました。 セブンイレブンの建物にも上田のシンボルである真田のマークがあったり、メロンパン屋は閉鎖されていたがシャッターに赤と黒の色が使われていたりして、上田市ならではの魅力を引き立たせていると感じました。2023-05-09
6青空と1羽の飛ぶ鳥青空と1羽の飛ぶ鳥2023年4月27日14時頃の上田市の空です。 青色~水色のきれいなグラデーションが出来ています。 風に乗って飛ぶ鳥にのどかさを感じます。2023-05-09
7晴天とまちの美容室晴天とまちの美容室4月27日13時30分ごろの上田市です。 絵に描いたような晴天が続く日でした。 ポップな色をした外観が特徴的な美容室が青い空に映えていました。電線がたくさん張り巡らされています。せっかくの青空が電線によってさえぎられており、少し残念な気もします。防災の観点からも電線の地中化が進むことを願います。2023-05-09
8ピザとカフェのお店「kadokko」ピザとカフェのお店「kadokko」上田市常田にあるピザとカフェのお店「kadokko」に行ってきました。店内は古民家ならではの畳や机があり、温かい雰囲気でした。薪窯で焼いたピザは生地がもちもちしており絶品で、季節の果物を使ったタルトやパフェ、焼き菓子も置いてありました。外観は「kadokko」の名の通り、隠れ家のような雰囲気もありますが、店内は若者から年配の方まで幅広い層に親しまれ、店内が満席になるほど賑わっていました。2023-05-09
9まとめ(上田との比較)まとめ(上田との比較)今回、千曲市の橋を調査をしてみて、案外その数が少ないことに驚きました。 もちろん、調査にかけることができた時間も足りないというのは事実ですが、同じくらいの時間で行った上田市での調査では十五以上見つけたのに対し、千曲市では七つに留まりました。 ここで推論として考えられるのは、「大きい川があるから橋の数も多いとは限らない」ということです。千曲川のような巨大な河川に橋を架けるとなると、膨大な時間と費用がかかります。そういくつも架けることは市の財政的にも厳しいですし、最低限で抑えるのは当たり前です。よって、細かい河川が少ない千曲市には、そこまで多くの橋が見つからず、逆に多かった上田市では多く見られたということでしょう。 当たり前のように考えられる今回の推論ですが、実際にこの目で見て判2023-05-07
10はじめにはじめにこの記事は、千曲市内における千曲川沿いの橋を巡った記録としてまとめています。 以前、上田市街地周辺の橋探索を行ったのですが、思ったより数多くの橋を発見できました。故に、千曲川という日本最大の河川をもつ千曲市であれば、より多くの橋を見つけることができるのではないか、という考えのもと、今回の調査を行うに至りました。 上田との比較も交えることで、少しでも深みのある記事になることを期待しつつまとめていきます。 ※本サイトが紹介しているのはほんの一部です。千曲川沿い全ての橋を掲載しているわけではありませんので、御了承ください。2023-05-07
11コトバヤコトバヤ2023/05/06 上田市、柳町へ。 本を買いに古本屋「コトバヤ」さんに入店。 店内は今風のオシャレな本屋さん。 漫画も、昔の本(森鴎外とか宮澤賢治とか)も置いてある。 景観も店内も柳町らしく非常に趣がありつつ綺麗だった。2023-05-06
12山田神社山田神社2023/04/23 家の近くの神社へ。 境内には「神の水」と呼ばれている湧き水が流れている。 神社に行くまでの道は途中から車が一台ギリギリ通ることができるくらい。 細い道を抜けるとひっそりと建っている。 水は冷たくて心地よい。上田は山に囲まれているから他にも名水がありそう。2023-05-06
13武石余里一里花桃の里武石余里一里花桃の里2023/04/21 午前中、空いていたため武石村、花桃の里へ。 駐車場には、県外ナンバーがずらりと並んでいた。自分と同じくらいの歳の人はほとんどおらず、年齢層が高い。 花桃を見て回るコースがあり、ゆっくりと回った。 気温の影響で例年よりも2週間ほど早く見頃になったらしい。2023-05-06
14ゲーセンニャンライズ(ゲームセンター)ゲーセンニャンライズ(ゲームセンター)レトロな広告が並ぶ外装に興味をそそられ写真を撮りました。 趣のある建物にポップなチラシが並びとても雰囲気がありました。2023-05-05
15石刻獅子像(友好のシンボル)石刻獅子像(友好のシンボル)鎌倉時代に中国の寧波から上田市へ禅宗文化を伝えた別所温泉安楽寺開祖の樵谷惟遷らが行き来したという縁などから平成7年2月に上田市は寧波と友好交流都市提携を結びました。 この像は友好交流提携10周年を記念して寧波市から上田市に贈呈されたそうです。上田市からは「上田獅子」の石彫レリーフを寧波市に贈りました。 二頭の獅子がともに向き合っている姿が目に入り撮影させていただきました。2023-05-05
16上田映劇上田映劇大正6年に建てられた上田劇場。「上田映画劇場」、「上田映劇」と名称が変わりながらも地元の人々に親しまれてきました。平成23年4月をもち定期上映が終了してしまいましたが、平成29年4月に創立100周年を記念した「上田映劇再起動準備会」を開催。約6年ぶりとなる定期上映を再開しました。平成30年上田映劇の保存および、地域の芸術文化活動の活性化に寄与することを目的に特定非営利活動法人 「上田映劇」が誕生し現在に至るそうです。 とても雰囲気のある外観で、一際異彩を放っていました。2023-05-05
17実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座実践講座2:地域資料のデジタルアーカイブ化講座 【日程】2023年   2月4日(土) 10:00~16:00 藤本蚕業歴史館に学ぶ地域アーカイブの課題[LINK]   2月5日(日) 10:00~16:00 地域資料デジタルアーカイブの構築に向けて[LINK]   2月18日(土) 13:00~16:00 皆さんのデジタルアーカイブ/地域学習企画披露会[LINK] アンケート結果を掲載しました。 披露会の動画記録は追って公開予定です。 ▼実施体制等 主催:藤本蚕業プロジェクト(代表:前川道博 長野大学企業情報学部教授) 共催:デジタルアーカイブ学会地域アーカイブ部会、岐阜女子大学 協力:藤2023-02-26
18LIVIN上田店2007/12/30LIVIN上田店2007/12/30上田市のホテルルートインGrand上田駅前が建っている場所にはLIVIN上田店がありました。LIVINは西友系列の店舗です。2007/12/30に記録した写真があるので掲載しておきます。この建物が取り壊される時の風景を記録した写真もあるのですが、いつだったか、今は探し出せません。2023-02-25
19上田電鉄の重要性とは?上田電鉄の重要性とは?ここまで、上田電鉄の歴史と存廃問題、新たな転換方法について発表してきました。では、上田電鉄の重要性とは何なのでしょうか。私なりの意見として、上田電鉄は存在自体が重要であるということを述べたいと思います。上田市生まれの作曲家・コカリナ奏者である黒坂黒太郎氏は、自身の曲「別所線牧歌」においてスライドのような歌詞を綴っています。この歌は「上田市はこんなに素晴らしい里だ」「そこに走る別所線が好きだ」という板であり、ここに上田電鉄の重要性が詰まっていると感じています。 つまり、上田市という素晴らしい街、そこに別所線とい電車が走る。上田電鉄別所線はただあるだけでいい、そんな路線なのです。2023-02-15
20上田電鉄がなくなったら・・・?②上田電鉄がなくなったら・・・?②では、上田電鉄がなくなることのデメリットを見てみましょう。鉄道路線の廃止転換方法の代表的なものとして、バス転換があります。もし上田電鉄をバスに転換した場合、塩田方面に向かうバスを新設せねばなりません。別所温泉に行ったことのある方ならわかるかもしれませんが、別所温泉をはじめとした塩田地域は道が狭く、バスは交通の妨げとなる可能性があります。そのほかのバスによる弊害は数多くあり、運賃の高騰、車両当たりの乗客定員が減少するほか、バス特有の予測できない遅延壁があります。別所線の廃止を望む声は多くないですが、デメリットは数多くありそうです。2023-02-15
21上田電鉄がなくなったら・・・?上田電鉄がなくなったら・・・?では、もし上田電鉄がなくなってしまったらどうなるでしょうか。まず、メリットから考えてみましょう。上田電鉄がなくなった結果得られるメリットは「踏切の撤廃による道路交通の円滑化」が挙げられます。車社会の上田市には、踏切が煩わしいと感じる場面が多々あるでしょう。踏切の撤廃は道路交通という面で最高のメリットになり得ます。 もう一つのメリットは、上田電鉄に向けた上田市の補助金が余剰になり、上田市の財政が潤沢になるという点です。これを用いて公共事業などにあてれば、上田市は確実に良い方向に向かうことができるでしょう。2023-02-15
22上田電鉄とは?②上田電鉄とは?②ここから見るに、昔の上田電鉄は長大路線の地元の足、 現在の上田電鉄は幾多の経営危機を住民とともに乗り越えてきた、上田市民の結束を表すシンボルに近いものであると言えます。2023-02-15
23上田電鉄とは?上田電鉄とは?上田地域にはたくさんの企業や施設、団体があり、それぞれ星の数ほどに課題があります。一般企業も数多くありますが、せっかく上田市のことを学ぶので、上田地域にしかない企業はどうだろう、上田市の象徴のような企業はどうだろうと考え付きました。そこで、中心地の上田駅から塩田平を経て別所温泉へ至る上田電鉄について考えることにしました。 上田電鉄別所線は1921年に川西線として開通し、以降上で気を中心に放射状の路線が広がっていきました。 70年代にはモータリゼーションによって経営危機、実際にその十年後には同様の理由で真田・傍陽線などが廃止されました。 しかし別所線だけは観光需要もあってか存続され、税金が源泉の補助金によって経営状態は回復しました。結果的に積極的な設備投資や新幹線の開通もあり、2023-02-15
24学生による地域キュレーション2022(信州上田学A受講生)学生による地域キュレーション2022(信州上田学A受講生)長野大学の地域科目「信州上田学A」を受講した学生が「信州上田」を接点とした地域キュレーションの学習成果です。タイトルを選ぶとその学生のマイサイトを表示します。 ▼カテゴリ1:蚕都上田 【1】 長野県の中でなぜ上田市が蚕都で有名なのか 【2】 上田の養蚕の歴史を掘り下げ、伝え続けるには。 【3】 蚕都上田の歴史と未来 【4】 製糸業の歴史 【5】 蚕都上田の歴史 【6】 蚕都上田2023-02-10
25上田の映画館上田の映画館サマーウォーズの舞台にもなった上田市の映画館は、どのような特徴を持ち、どのような価値を持っているかと思い私は上田の映画館について調べてみた。 この写真は上田劇場だ。上田劇場はロケセットを観光資源とするとておユニークな営業を行っている。 そのほかに上田には映画館はたくさんある。しかし上田にあったイトーヨーカドーは2020年6月に閉店が決定した。2022年には「綿半スーパーセンター」ができるそうだ。 このように有名な映画の舞台になった上田の映画館は工夫がないと大型商業施設であってもつぶれてしまうのが現状だ。その背景にあるのはサブスクライブの登場だろう。 今後どのように映画館が変化していくのか楽しみである。2023-02-08
26まとめまとめ上田電鉄別所線の各駅周辺は、数多くの作品の聖地となっていることが分かりました。これからも上田市がロケ地と活用されるよう、期待したいです。2023-02-08
27~番外編~~番外編~映画「サマーウォーズ」(2009)も上田市が舞台となった映画です! 上田駅周辺の「上田城跡公園」「海野町商店街」、別所線からは少し外れますが、「砥石・米山城跡」「上田高校」などがモデルとなっているシーンが登場します。 上田駅構内や別所線の特徴でもある丸窓が描かれているシーンもあります。 https://nagano-ueda.gr.jp/s-wars/guidemap.html2023-02-08
28小県蚕業学校小県蚕業学校現・上田市付近である当時の長野県小県郡では、明治25年に小県蚕業学校(現・上田東高校)が全国に先立てて設立された。蚕業教育の充実化が図られていたため、先ほどの小説が作成された明治29年当時も、小県郡の蚕産業は盛んだったことが推測できる。 参考サイト:みんなでつくる信州上田デジタルマップ ▼この資料は以下から参照できます。 ミッチー「小県蚕業学校(『上田市史』下巻1940)」 https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=2303 (2023/02/06閲覧)2023-02-06
29昔の地図を使った冒険昔の地図を使った冒険今の自分の住んでいるアパートや通っているバイト先が昔はどんな姿だったのかと考えたことはあるだろうか? そういったものをこのような絵図と見比べてみても面白いのではないだろうか? 自分のアパートは昔どういう役割を持っている建物だったのか?1つ前は八百屋だったのか?その前はだれの、どのような家だったのか? そのようなことを考えながら、友達の家を巡ってみるのも、この春休みの良い暇つぶしになるのではないだろうか。 引用画像 信州デジタルコモンズ 上田城下町絵図 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03MP14000600012023-02-08
30はじめにはじめに今回は別所温泉がどのような場所なのかについて上田市デジタルアーカイブポータルサイトを使用して探求する。 上田市デジタルアーカイブポータルサイト | 上田市の貴重な文化財や映像をデジタル化して公開 https://museum.umic.jp/index.html2023-02-04
31「藤本蚕業アーカイブ構築」を振り返って「藤本蚕業アーカイブ構築」を振り返って 私はこの一年間地域資料のデジタルアーカイブ活動を行い、活用機会が無い地域資料の撮影とネット上の公開をしました。その中で藤本蚕業アーカイブについて紹介します。  藤本蚕業アーカイブは藤本蚕業歴史館史料をネット上に公開するアーカイブであり、かつて蚕の卵である蚕種の日本最大製造地であった上塩尻の中心であった佐藤家(藤本蚕業)所蔵の史料を扱っています。歴史館では蚕種にとどまらず歴史、文化、地理に関わる文書・書籍も多く有しており、アーカイブでも見ることが出来ます。私は当アーカイブにおいて主に史料の撮影、記事の投稿を担当しました。  実際の資料を紹介します。  1925年11月に発行された上田市図書館報第三号では、最も興味深い点として新刊の発表に法学系冊子を真っ先に乗せている点で、大正デモクラシ2023-02-03
32あんかけ焼きそばあんかけ焼きそば中華料理の定番メニューとして知られているが、上田市に訪れたときは一度は食べておきたいご当地グルメ。 蒸した中華麺を油で焼きつけるようにして炒めるか、油で揚げたものの上に、肉や魚介、野菜などを炒めて、調味料やスープ、片栗粉を加えて作った餡をかけたものである。上田市であんかけ焼きそばが有名な店として「日昌亭」「福昇亭」などが挙げられる。 引用元https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=10786 https://mecicolle.gnavi.co.jp/report/detail/5785/2023-02-01
33野沢菜野沢菜地元の親戚から野沢菜をお土産に買ってきて欲しいと言われるくらい、長野では有名な郷土料理。野沢菜漬けの原料「野沢菜」は、アブラナ科の植物で、菜の花の仲間。野沢菜は漬物が有名だが、栽培の際に間引かれたものは地元ではお浸しなどにして食べられている。また、上田市で有名な「おやき」の具材としてもよく使われている。 引用元https://d-commons.net/uedagaku?c=28&p=4078 https://mail.google.com/mail/u/1/?tab=wm&ogbl#inbox2023-02-01
34別所線で巡る上田市ロケ地MAP別所線で巡る上田市ロケ地MAP映画やテレビドラマなどの映像作品のロケ地となった上田市のスポットを探求する。特に、上田電鉄別所線の駅から徒歩圏内の場所を紹介し、観光客や車を持たない地元の人も訪れることが出来る場所を紹介する。2023-02-01
35サントミューゼサントミューゼ上田市には上田市交流文化センター「サントミューゼ」がある。サントミューゼという名前は「蚕都(さんと)」に由来する。立派な大ホールでは、しばしばミュージカル、演劇など様々な芸術を鑑賞することができるので、興味を持った方がいたらぜひ足を運んでほしい。 参考サイト:みんなでつくる信州上田デジタルマップ ▼この資料は以下から参照できます yin「市民の交流の場 サントミューゼ」 https://d-commons.net/uedagaku?c=&p=11229 (2023/01/27) 以上のことから、上田と養蚕は切っても切れない関係であることがわかった。上田市の発展は、養蚕の発展によるものと言っても過言ではない。また、養蚕と演劇にも関係があることがわかった。演劇は、リアルに、生で感情や想いを伝えられる・受けとれる手段であり、養蚕の歴史を残すための手2023-01-27
36そばは手打ち…うどんは?そばは手打ち…うどんは?上田市の観光課があげている、別所温泉の写真だ。実際に行って見ないと、今もこうなっているのかは、分からない。しかし、写真を見る限り、古い記事ではないのであろう。 https://museum.umic.jp/johogura/bessho/2691013/2691013.html2023-02-01
37まとめまとめ今回の「上田市と太郎山」のキュレーションで分かったことは、太郎山は上田市民と文化的に密接に関わっていたということだ。 今も昔も変わらず上田の地を上から見下ろす太郎山は、上田に住む人々にとって信仰の対象であったり、故郷の思い出として残るものであったりと、様々な形で上田市民の中にあることだろう。 私も去年一度登ったことがあるがとても登りやすく初心者にもおすすめで、山頂からは上田市が一望できる最高の山なので、是非一度登ってみてはいかがだろうか。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_08432023-02-01
38うどん屋があげられている!うどん屋があげられている!上田市制70周年記念タイムスリップ手作り城下町という記事があった。 400年前の城下町を再現しようというものだった。写真は、多くの人が訪れている様子がある。 お茶屋、うどん屋、野菜売り。そば屋がいない! http://db.umic.ueda.nagano.jp/data/johogura/datadisp.php?arg_sano=20490582023-02-01
39太郎山とハリー・K・シゲタ太郎山とハリー・K・シゲタ写真は国際的商業写真家として活躍した写真家、上田出身のハリー・K・シゲタが撮影した、千曲川と太郎山の写真「上田橋より太郎山を望む」である。 昔から現在まで変わらず太郎山は上田市民と密接に関係しているものだと分かる。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_06442023-02-01
40太郎山と上田のイベント太郎山と上田のイベント上田市民はイベントとしてこの太郎山を登るという事もある。 上田市政70周年記念として行われたのは、れん台に乗った女性を担いで、太郎山一番のりを目指す「めざせ十勇士’89戦国ラリー」である。 30チームが参加し、黄金沢の不動滝から太郎山の大鳥居まで裏参道を登って順位を競った。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_07512023-02-01
41鹿教湯温泉の歴史と五台橋鹿教湯温泉の歴史と五台橋鹿教湯温泉は20件ほどの宿泊施設が立ち並ぶ山間の温泉地です。上田市と松本市の間にあり、環境庁選定国民保養地として認定されています。そのため、健康の郷としても有名です。そのため、散策をしながら自然の癒しを感じることもできます。 鹿教湯温泉の歴史の始まりは地名がついた由来にも関連しています。漁師から矢傷を受けた鹿が温泉の場所を教えてくれたことから温泉地としての歴史をスタートし、1200年の長い歴史を誇ります。 湯量は非常に多く、20件ほどの温泉施設では24時間かけ流しの施設も。源泉の温度は46℃ほど。また、色は無色・透明。泉質は弱アルカリ性低張性高温泉となっており、高血圧、脳卒中の後遺症、疲労回復に対して効能があります。 また、写真は鹿教湯温泉の付近にある文殊堂へとつながる橋である五台橋の画像2023-02-01
42飯島保作(花月)(いいじまほさく(かげつ))飯島保作(花月)(いいじまほさく(かげつ))飯島保作は、文久3年(1863)に飯島家の長男として横町に生まれました。明治6年(1873)上田街学校に入学し、明治10年(1877)に上等小学校全科を卒業しました。上田街学校の教員補助の職は、天皇の御巡幸が終わった後退職し、家業(質屋)に従事しました。  自らが作成した年賦には「家業のかたわら独学」とあります。向学心旺盛な青年で、この向学心が実業家飯島保作を生み、このころから雑誌に狂歌、川柳等々の投稿を始め、後の上田地方の庶民文学のリーダーとしての文学上の資質を開花させたのです。  保作は、上田商工会議所会頭、第十九銀行の頭取を歴任して生涯を閉じた上田を代表する傑出けっしゅつした実業家でした。明治15年(1882)10月、上田郵便局に採用され、最初の職業の第一歩を踏み出し、2023-02-01
43笹沢檪亭 (ささざわれきてい)笹沢檪亭 (ささざわれきてい)檪亭は、安政2年(1855)、小県郡坂井村(現上田市塩川)に生まれ、本名を清十といい、幼い頃より画才に富み、花鳥画を描いては村人を感嘆させたといいます。早くに父を亡くし苦労して育ちますが、母の理解もあって、明治6年(1873)、18歳の折に島田桃渓とうけいに師事して絵の指導を受けたのを手始めに、明治18年(1885)、29歳の時には、水戸の木下華圃かほに師事。この頃から専業画家としての道を歩むことを真剣に考え始めたものと思われます。  明治19年(1866)、31歳の折には終生の師となる児玉果亭に入門を許され、果亭より檪亭の雅号を受けました。この檪亭が入門した明治19年は、第2回内国絵画共進会に出品した果亭の即品が天覧に供され、出品2点のうち1点が宮内省買上げ、1点が銀杯(こ2023-02-01
44西川小扇八 (にしかわこせんぱち)西川小扇八 (にしかわこせんぱち)上田地方だけでなく、広く東信地方から県内にかけて日本舞踊の普及に尽力した小扇八は、明治38年東京浅草瓦かわら町に生まれました。小扇八(本名金子光みつ)の育った浅草界隈は、古くから歌舞音曲かぶおんぎょくの盛んな土地柄でした。生まれつき体の弱かった光を心配した両親は、健康のために芸事を身につけさようと、長唄や日本舞踊、華道、茶道など日本古来の伝統芸能を一通り習得させました。  とりわけ光は日本舞踊に強く興味を示し、自ら進んで西川流に入門し、稽古に励みました。縁あって18歳で結婚しますが、婚家になじまず実家に戻ります。浅草に戻った光は生涯進むべき道を日本舞踊と決め、西川扇五郎に師事します。再び踊りの世界に没頭し、厳しい稽古に耐え、艱難かんなんを克服して次第に頭角とうかくを現あらわ2023-02-01
45まとめまとめ上田市、特に私の住んでいる神川地区の芸術家について探求してみました。 きっかけとして私は山本鼎が初めて自由画教育行った神川小学校にも通っていて小さい頃が馴染みがありました。また「山本鼎先生の部屋」という教室があり、当時の生徒が描いた作品が保管されていました。私が小学校の時も山本鼎について学んだり、農民美術も飾ってあったりと、とても身近な存在に感じていました。 そこで山本鼎のような芸術家はどのような影響を与えたかを探求してみたいと思いました。 多くの芸術家は農民などにあまり縁のなかった芸術に触れてもらおうと活発な運動をしていて、上田に対する愛を感じました。また芸術の他にも教育や行政にも関わることも行っていて上田市民のために動いた芸術家が多くいることが分かりました。今まで上田で暮2023-01-31
46兎束武雄兎束武雄上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。母親の影響で琴を習っていたそうです。音楽に興味を示していた幼少期ですが、父親からは反対されていたそうです。 上田中学校(現上田高校)を卒業し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。武雄は、音楽の楽しさや喜びを多くの人々と分かち合いたいと考え、地域の音楽活動に力を注ぎました。昭和8年、28歳のとき、梅花幼稚園の同窓生に声をかけ、「からたち合唱団」を創りました。当時、県下で混声合唱団と呼ばれるものはなく、上田2023-01-31
47太郎山とは太郎山とは太郎山は上田市の北部に位置し、標高は1164mである。 山頂までは2時間ほどで登ることができ、老若男女問わず気軽に登ることができる山として上田市民や登山好きに親しまれている。 https://jpsearch.go.jp/item/u001-UMS_008_08432023-01-30
48前川ゼミレポート前川ゼミレポート私の探求テーマは、「別所=上田を広める」だ。 私がこのテーマにした理由は、別所という地名は聞いたことがあっても、長野県上田市にあると知っている人は少ないのではないかと考えたからだ。また、別所の魅力を伝えることは、上田に来る観光客を増やすことに繋がると考えた。 別所へフィールドワークに行ったときに、年配の方が多いように感じた。そこで私は、今回のターゲットは若者にしようと考えた。若者に別所の魅力を伝えるときになにが一番有効で、興味を持ってもらえるかを考えた時に、私はカフェだと思った。別所には魅力的なカフェがある。それを、SNSを活用し、伝えていこうと思った。 SNSに投稿する画像を制作するときに私が気を付けたことは、二つある。一つ目は写真の撮り方だ。ケーキや飲み物がどう撮影したら魅力的2023-01-30
49これなんだろう?これなんだろう?皆さんはこんな瓦を見たことがありますか? これは猫瓦といいます。 猫瓦とは、養蚕をする上で蚕がネズミに食べられてしまうことがあり、そのネズミ除けの願いを込められた瓦のこと。そのためネズミの天敵である猫がモチーフになっている。 上田市上塩尻では蚕種製造が盛んであったり、養蚕をする家が多くあった地域であるため、今でも越屋根といった養蚕特有のものが残っている。もちろん猫瓦が残る家も多くある。猫瓦はただ猫の形をしているだけではなく、文字や絵が掘られている。これらには様々な思いが込められているそうだ。2023-01-30
50上田市で農地を所有しながら暮らすには上田市で農地を所有しながら暮らすには上田市は自然が豊かで農地が沢山あるのになぜか農業が盛んではないのだろうか。 我が家にも農地があるが半分以上がの農業放棄地となっている。農業放棄地が発生してしまっていることが農業が盛んになっていくうえで邪魔になっているのではないだろうか。 農業放棄地が増えていく原因の一つに農地に関する法律があると考えた。そこで農地法を調べたところいくつかの問題点が見つかった。 ・農地の売買や貸借に農地の所在する市町村の農業委員会の許可が必要な点。 ・農地売買の許可を得るのに農地の権利取得後の経営面積に原則として都府県50a、北海道は2ha以上になること(例外あり) ・農地を取得する個人またはその家族等が取得後に行う農業事業に必要な農作業に常時従事しないと農地を買えないこと これら3つが大きな問題と2023-01-30
51”川”と共にある上田市御所”川”と共にある上田市御所上田市には千曲川が流れている。 上田市の災害の歴史を語るには欠かせないだろう 千曲川が流れている御所では、昔から大きな洪水の被害を受けてきた。その被害を少なくするために当時の村人達は「水天宮」を奉納し、「天御中主神(あめのなかぬしのかみ)」を祭ってきた。 向かいにも「水神宮」がある。 今、ここで生活出来ているのは当時の人々が、こういった「信仰」によって水害が少なくなることを願い、どうすれば安全になるのかを考えて対応をした、それらの「堤防」の積み重ねの結晶であると考えられる。 昔の人々の想いに馳せながら、こういった史跡を巡ってみるのも面白いのではないだろうか。2023-01-30
52開善寺宛武田信玄定書開善寺宛武田信玄定書この文書は現在上田市新田にある海禅寺が、戦国時代に小県郡東部町海善寺地区にあった当時、武田信玄が永禄5年(1562)11月7日、この寺に祈念を頼み、願がかなったときには、開善寺(海善寺・海禅寺)に、以前の通り土地を寄付することを約束した定書であるそうです。 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0028.html2023-01-30
53土偶型容器について(2)土偶型容器について(2)出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-7533?locale=ja) 画像の土偶型容器の出土地は長野県上田市腰越。弥生時代(前期)・前4~前3世紀頃のものとされる。現在は東京国立博物館が所蔵している。 おそらく出土の際に頭部がなくなっていたのだろう。 土偶型容器は頭部が開いているものであるが、首がなくなっていることで体全体が空洞になっていることがわかる。乳房のような表現があることから女性をイメージしていると思われる。2023-01-29
54土偶型容器について土偶型容器について出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_item_images/tnm/J-7532?locale=ja) 土偶型容器(どぐうがたようき) 頭部が開いていて足の表現がない人型(ひとがた)の容器で、容器型土偶とも喚ばれる。中から焼けた小児骨が出土した例もあることから、再葬墓という当時の東日本で流行した墓制に関わるものと考えられている。 画像の土偶型容器の出土地は長野県上田市腰越。弥生時代(前期)・前4~前3世紀頃のものとされる。現在は東京国立博物館が所蔵している。 国宝の縄文のビーナス、仮面の女神と比べると険しい顔をしている。首や胴が長く頭が大きい、腕が体全体に対し短いというようにバランスはあまり良くないように見えるが、小児を表しているのではないかと考える。2023-01-29
55仙石氏~松平氏 藩主の移り変わり仙石氏~松平氏 藩主の移り変わり仙石氏3代の後に上田藩主を務める松平氏は、上田藩の歴史の中で一番長い7代続くことになる。松平氏で初めて上田藩主を務めたのは松平忠周であるが、彼の時代に上田へ移封されたのだが、同じく但馬国出石(兵庫県)へ移封された仙石氏とは領地を入れ替わる形で上田を収めることとなった。 参考サイト 上田市デジタルアーカイブポータルサイト https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/2023-01-29
56初代上田藩主 真田信之初代上田藩主 真田信之真田信之は初代上田藩主を務めた人物であり、上田城を築城した真田昌幸の息子である。信之は徳川家に仕える猛将本田忠勝の娘、小松姫と結婚し、関ヶ原の戦いでは父昌幸、弟幸村とは対立することとなる。その後は上田領を任され、農村の復興と上田城下町の整備に尽力したが、1622年に松代へと移封されることとなる。 参考サイト 上田市デジタルアーカイブポータルサイト https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html 上田市博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/2023-01-28
57松平忠固松平忠固松平家は仙石氏3代の後に上田藩主を務める事になった家である。その中でも特に功績を残したのが忠固であるといえるだろう。忠固は上田藩主だけでなく当時の江戸幕府老中も務めており、条約の締結や、開国が成された際に上田の特産物を貿易に用いようと提案した人物でもある。 参考サイト 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/ 松平忠固史 https://www.matsudairatadakata.com/2023-01-28
58海野町レトロ写真館 活動報告海野町レトロ写真館 活動報告2019年度から2022年度にかけて、信州上田デジタルマップを活用のもと、上田市の海野町商店街に焦点を当てて、研究を行ってきました。2023-01-28
59はじめにはじめに上田市によると、『平成18年3月6日に、旧上田市、旧丸子町、旧真田町、旧武石村の1市2町1村が合併し、新しい「上田市」が発足しました。』とある。そのため上田の過去の資料を調査するにあたって上の4地域に分割して比較していく。 参考 ”合併(平成18年3月6日)に関すること”,上田市,2019-12-12https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/gyokan/6028.html(2023年1月27日閲覧)2023-01-27
60蚕種業における歴史的建築物について蚕種業における歴史的建築物について かつて蚕種業で栄えた上田を参考に地域を活性化していく方法を模索した。  建築物の特徴としては、作業を行いやすいよう、屋敷をつなぐ渡り廊下跡があり、温度調節のための木造の暖房施設があった。発展を示す跡として、屋敷が多く建ててあり、家紋付きの瓦や蔵など当時の発展の象徴が多くあった。  今回の建築物は上田市上塩尻の建築を参考にさせていただいたが、養蚕に関わる設備跡はもちろん、目地時代当時の発展の様子や当時の文化を表すもの(家紋・猫瓦)が実在する資料として現存していた。これらの建築物は国登録有形文化財にもなっており、価値が高いものになっている。  今回のイベントを介して、建築物を見学することができたがそれらを通して、別の気づきがあった。地域の方が蚕種業の歴史を詳しく知らない方がほと2023-01-27
61上田人気のご当地グルメ「美味だれ」上田人気のご当地グルメ「美味だれ」引用元:https://oidareyakitori.jp/ 上田市のご当地グルメとして有名な美味だれ焼き鳥。そこに使用されるニンニクが入った醤油ベースのたれはお土産としても人気です。 この製品のパッケージデザインには一目で上田らしさを感じられる六文銭が採用されています。また製品名のタイポグラフィーもシンプルながら伝統を売りにしていることが伝わる字体で、赤基調に黒文字といった色彩も真田を想起させてくれて、よく考えられたデザインだと感じました。2023-01-27
62お土産の定番! 信濃路うさぎやのくるみそばお土産の定番! 信濃路うさぎやのくるみそば引用元:https://www.usagiya-ueda.com/ 上田お土産の代表格ともいえる、蕎麦粉の皮で餡を包んだ、素朴で美味なお菓子「くるみそば」。 サクッ ホロッとした風味漂う皮部分に上に乗ったたっぷりのくるみ、中に詰められたネットリ食感の飴・餡、上田市民含め多くの人たちに愛され続けています。 この製品のデザインを見ていったとき一に目につくのは、パッケージの背景として描かれた水彩画調の植物の数々でしょう。原料に自然豊かな地だからこそのそばやくるみを使用しているこの製品らしさが表れているように思います。またタイポグラフィーも習字調で歴史ある製品なのだなということを強く感じさせてくれます。2023-01-27
63上田市の自然文化について上田市の自然文化について別所温泉は、信州最古の歴史を持つ七久里の湯と呼ばれる温泉を持ち、平安時代の有名な和歌集にも記されている。安息の場として栄えた別所温泉は、かつて真田幸村の隠し湯があったとも言われていて、1500年以上の歴史を持っているとされている。 また別所を含む塩田平は、信州の鎌倉とも呼ばれ、温泉に限らず多くの文化財が残されている。 「幕宮池」と呼ばれる池は、日本で最も降雨量が少ないとされる位置にあり、多くのため池が作られた場所である。 〈参考資料〉 https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/others/01DD001H230003 https://adeac.jp/shinshu-chiiki/catalog/mh0555002023-01-26
64前川ゼミレポート前川ゼミレポート私は、なぜ上田氏は真田氏のPRに固執するかについて疑問を持ったため調べることにした。というのも、上田市には別所温泉近辺にたくさんの歴史的建造物があり、「信州の鎌倉」という別名まで付けられるほどのだからだ。そして「別所温泉」という名前自体は全国的にもある程度知られている。まったくの無名の観光地をアピールするわけではないのになぜここを差し置いて真田氏に固執するのだろうか。 真田氏に固執する理由として思いついたのが歴史好きに対するアピールの強さだ。二度にわたる上田の戦い・大阪の陣で有名な真田幸村にゆかりのある地(真田村)であることから、上田城や真田氏についてアピールできる。だが、この真田氏についてもやや疑問がある。一般人に「武将の真田」と言って思い浮かべるのは真田幸村だろう。この真田2023-01-26
65蚕都上田の歴史と未来蚕都上田の歴史と未来私は「蚕都上田の歴史と未来」というテーマで蚕都について探求しました。より考えを深めるために計四か所の施設に見学に行きました。 一枚目の写真は上田駅の構内に設置されている繭の女神様です。蚕糸業の全盛期時代である大正時代から蚕は上田の地を支える存在であったことが分かりました。 二枚目、三枚目の写真は常田館製糸場と上田蚕種協同組合事務棟です。製糸場は繭の乾燥や保管のために多窓式になっているなど建物ごとに様々な工夫が見られました。製糸場の建物15棟中7棟は国の重要文化財に、事務棟は文化庁の登録有形文化財にそれぞれ指定されています。四枚目の写真はホール、美術館などの複合施設であるサントミューゼです。名前の由来は蚕都からきており、人々の交流の場として上田市には欠かせない存在になっています2023-01-26
66”温泉”という身近なお風呂”温泉”という身近なお風呂住んでいる中で一番、観光する目的が明確にある場所といったら別所温泉であるといえる。 なぜ目的が明確にあるのか。 それは、上田市に住んでいる学生は実家を離れてアパートなどで一人暮らしをしている人が多い。 そのため、お湯を沸かしてくれるリモコンなどの設備が無いため、シャワーだけで済ます人がほとんどである。そのため、温泉という「湯船」に気軽に浸かれる場所というものはとても貴重である。さらに、今の時期(これを書いている日付は2023/01/27)は寒さが厳しく給湯器が凍ってしまいお湯が出にくいという人も大勢いるのではないだろうか? そのため、風呂に行くという目的の下、温泉に観光に行けるのではないだろうか。 別所温泉付近だけでも約7箇所あるため、1週間ごとのシフトを組んでみて赴いてみるというのも面白いかも2023-01-26
67名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~名工の社殿と養蚕農家 ~上田市下堀地区~信濃国分寺駅の南側に位置する下堀地区です。 ここには堀川神社があり、今でも地区住民によって守られています。 拝殿は一見シンプルですが、本殿を見ると見事な装飾があります。これは1886年(明治19年)に上田の名工竹内八十吉によって掘られたものです。八十吉は1815年(文化12年)から1898年(明治31年)まで活躍した諏訪立川流の大工で、堀川神社以外にも信濃国分寺の本殿の彫刻も掘っている。 次に下堀地区は養蚕業で栄えていた地区である。その証拠がこの石垣である。 これは、ぼたもち積みと呼ばれる積み方でお金持ちの家しか作ることができない石垣である。https://d-commons.net/upload/4/575/054168_0023_006.jpg養蚕業で儲けていたからこそできる石垣で、当時は養蚕農家それぞれが競い合って家を建てていたそうだ。それほどまでにこの地区の養2023-01-19
68上田のelaboration 上田の「観光産業」を知ってほしい!!上田のelaboration 上田の「観光産業」を知ってほしい!! キュレーションとは、インターネット上の情報を、特定の視点を持って収集、選別、編集することで新しい価値を持たせ、それを共有することを意味する語である。https://www.hrpro.co.jp/glossary_detail.php?id=99より引用 そこから私は上田のキュレーションとは上田の情報を我々の視点から収集、選別、編集することで価値を持たせ、上田の良さの再発見するということだと定義した。 私の上田のキュレーションは上田の「魅力」「良さ」の再発見であり、私は、それは「観光産業」にあると考えた。私が第一に上田で目を付けた観光産業は「十福の湯」だ。上田にお住まいの人ならば知っている人は知っている上田の名温泉だ。この温泉は信州最大級の大露天風呂を有しており、屋外独立の檜サウナもある。さらに自然豊かなため、温泉浴だけではなく、森林浴2023-01-25
69兎束武雄(うづかたけお)兎束武雄(うづかたけお)上田町大手の銀行家兎束鐘一郎の長男として生まれた武雄は、幼い頃から音楽に特別な興味を示す子どもでした。しかし、父親は音楽は男のするものではないと考え、武雄の音楽に対する熱意を快く思っては居ませんでした。母親は、音楽を好み自ら琴を弾いたり、4人の姉妹たちにも琴を習わせていました。  上田中学校(現上田高校)を卒業した武雄が、音楽の道に進みたいと父親に相談しましたが猛反対を受けましたが、母親の協力と武雄の熱意に最後には承諾しました。  武雄は上京し、東洋音楽学校に入り勉強に励みましたが、東洋音楽大学だけの勉強では満足できず、他の大学でも聴講し、作曲やピアノ、チェロなどを勉強しました。大学を卒業した武雄は、高等学校の教師になることを決意して上田に帰ってきました。  上田に戻った武雄2023-01-25
701910年の上田の気候1910年の上田の気候長野地方測候所の記録によると、1910年の上田(小県郡上田町)の最高気温は7月21日の34.7度、最低気温は2月3日のマイナス12.1度だったことが分かる。 2022年の上田市の最高気温は38.8度、最低気温はマイナス10度であり、これは現代の上田市の気候より冬はやや寒く夏はやや暑いくらいである。今と変わらず上田は夏は暑く冬はとても寒い気候であったことが分かった。 また最大積雪量を記録したのは3月23日の一尺一寸(約33センチ)であり、この年は現代の上田市の平均的な積雪量よりかなり多かったことが分かった。2023-01-25
71蚕業と気候蚕業と気候上田市は年間降水量が1000mm未満であり、日本一晴れの日が多い街である。この気候は蚕の飼育に適しており、上田市は日本でも屈指の蚕の産地になった。2023-01-25
72サントミューゼサントミューゼサントミューゼのサントは、かつて蚕都として栄えた上田市の歴史と、日本一の晴天率を誇るため、太陽が燦々と、さらには文化・まち・人を育てるという3つの目標が込められている。 ミューゼはミュージアムからの造語である2023-01-25
73蚕業の施設蚕業の施設長野県上田市では、かつては蚕業が盛んな地域であった。それを象徴するのが常田館製糸場である。この製糸場は明治33年創業の歴史ある建造物である。当時の養蚕業は日本の近代化の原動力であり、様々な箇所で利用されていた。この施設では、室温度、通風、乾燥などを整えることで、一年を通して平均的に生糸を生産することが可能となっていた。 木造5階建繭倉庫、鉄筋コンクリート5階建倉庫群などは、国指定重要文化財に指定されている。2023-01-25
74石湯石湯石湯の表には、真田太平記の池波正太郎書「真田幸村公隠しの湯」の碑がたつ。 https://museum.umic.jp/johogura/bessho/2581061/2581061.htmlより引用2023-01-25
75安楽寺八角三重塔安楽寺八角三重塔日本で最も古い臨済禅宗寺院の一つである安楽寺。そこにある木造八角三重塔は、木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築で、長野県では一番早く「国宝」に指定された。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot1.html2023-01-25
76別所神社本殿別所神社本殿別所神社本殿は、別所温泉の北方、常楽寺に隣接し、塩田平をはじめ遠く浅間連峰が望める小高い丘の上にあります。 https://museum.umic.jp/bunkazai/document/dot14.htmlより引用2023-01-25
77仙石氏中興の祖 仙石秀久仙石氏中興の祖 仙石秀久上田藩主を務めてはいないが、仙石氏について調べる上で欠かせない人物が秀久である。秀久は織田、豊臣に仕えた後、関ヶ原の戦いでは徳川方に参戦していた。豊臣時代に小諸城主と小諸藩主を務めたが、仙石氏は小諸藩から上田藩に移封されることとなった。秀久は小諸藩時代に死去していたため息子忠政が信之の跡を継ぎ、仙石氏3代による上田統治の時代が始まった。 参考サイト 上田市デジタルアーカイブポータルサイト https://museum.umic.jp/sakuhin/web.html 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/2023-01-25
78岳の幟岳の幟塩田平の西辺に位置する別所温泉地区には、「岳の幟」と呼ぶ雨乞〔あまご〕いの祭りが伝わっています。この塩田地方は昔から水不足で大変悩まされてきた所で、灌漑〔かんがい〕用の溜〔ため〕池も多く造られ、雨乞い行事もいろいろ行われてきました。 ー中略ー 祭日は例年七月十五日(近年その日に近い日曜に変更)として、別所の上手〔わで〕・院内〔いんない〕・大湯〔おおゆ〕それに昭和四十九年大湯から独立した分去の四地区で、輪番〔りんばん〕に幟の役に当ります。夜明前に、上部に笹のついた竹竿と巻いた布を担いで夫神岳に登り、日の出と共に九頭竜神の石祠に布と神酒を供え、郷中の安全と五穀豊饒〔ごこくほうじょう〕を祈ります。 ー中略ー 支度を整えて日影公民館に待機をしていた三頭獅子とささら踊りの一行がそれに加わり2023-01-25
79真田氏~仙石氏 藩主の移り変わり真田氏~仙石氏 藩主の移り変わり仙石氏が上田藩主を務めることになった理由は、1622年に当時の上田藩主を務めていた、真田信之(幸村の兄)が松代へ移封されたことが原因である。 「上田城は真田の城」というイメージが強いが、実は真田氏が城主を務めたのは信之とその父昌幸の2代だけである。 参考サイト 上田市立博物館 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/2023-01-25
80温泉薬師瑠璃殿 解説温泉薬師瑠璃殿 解説本尊薬師如来。北向観音堂の西方の崖の上に建てられた一風変わった建物で「医王尊瑠璃殿」と呼ぶ。建立年代は明らかでないが、資料によれば焼失した後文化6年(1809)に地元湯本薬師講中によって再建されたという。温泉の効能に併せて病気を除き解脱するという深い温泉薬師信仰に由来するものである。「瑠璃殿」という名は、薬師如来を瑠璃光如来とも呼ぶところからとった名である。 http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668014より引用2023-01-25
81別所温泉 解説別所温泉 解説塩田平を囲む山なみの西方にそびえる夫神(おがみ)岳のふもとに、この地方の古い歴史とともに、絶えまなく湧き続けて来たのが別所の温泉である。この自然の出湯と人とのかかわりは、夫神岳の麓から古代の布目瓦が多数発掘されたことによっても、その古さが想像される。 国造や国府の所在していた古代から、庶民の安息療養の場所であり、また温泉の効能と医薬信仰が、やがて仏教の霊場としての北向観音堂となったであろう。 別所の温泉は昔から”七久里(ななくり)の湯”と呼ばれたといわれ、平安時代の有名な和歌集にもその名をとどめている。 鎌倉時代には北条氏の居館塩田城にも近いので北条一族の好んで来湯することも多かったと想像される。国宝八角三重塔のある名刹安楽禅寺は北条氏の開基によるところから、別所という地名は2023-01-25
82大湯大湯大湯別所温泉外湯のひとつ。景行天皇の御代、日本武尊の東征の折発見されたと伝えられ、古名七久里の湯、枕草子にも記された信州最古の温泉。大湯は木曽義仲が愛妾葵御前をつれて逗留したと「新・平家物語」に書かれている。 http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=3032090より引用2023-01-25
83別所温泉別所温泉別所温泉JR上田駅から電車で25分、バス30分、海抜650メートル静かな高原の湯の里。温泉は54度C単純硫化水素泉で無色透明。宿は20軒、平安貴族の別荘があったところから別所という。 http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=2691013より引用2023-01-25
84農民美術運動を促進した人物農民美術運動を促進した人物版画家・山本鼎は、明治15年愛知県岡崎市で生まれましたが、父親が小県郡神川村大屋(現在の上田市大屋)に大屋医院を開業したため、鼎は上田との由縁がありました。 鼎は版画家としてだけでなく、画家としてもその名を残しました。明治35年、20歳で東京美術学校へ入学し、「湖畔」で有名な黒田清輝に油絵を学びました。大正元年にはフランスに渡り、その間に描いた作品はどれも好評を博しました。 帰国後、児童画とその指導方法の改革を目指した運動を起こします。鼎は絵を描く技術、方法が重要ではなく、自分の目で見て、感じたとったものを描くことが、児童の発達に大切などだと説きました。その後大正8年4月には神川小学校で第一回児童自由画展覧会を開催し、自由画教育は全国各地に広がりました。 一方、大正8年11月には神川村2023-01-25
85別所でひと息「風乃坂道」別所でひと息「風乃坂道」常楽寺への道中にある「風乃坂道」 落ち着いた雰囲気のこのカフェでは、心が温まるケーキがいただけます 飲み物の種類も豊富で、ケーキと相性抜群! 別所に訪れた際に立ち寄ってみては?2023-01-24
86農民美術を再び普及させるには農民美術を再び普及させるには私は課題探求ゼミナールで森林資源の活用方法として農民美術のこっぱ人形に利用できないかと考えていたため農民美術を再び普及させるためにはどうすればよいかを探求テーマとした。 農民美術は今からおよそ100年前に山本鼎によって提唱された。農村部の若者たちに手工芸品の技術を教え農閑期の副業としまた、それまで無縁であった美術活動への参加を促すものであった。上田市を拠点とし全国へと波及したが戦後は徐々に衰退した。 木っ端人形をふたたび普及させるためにまずは尾澤木彫美術館にて実際に木っ端人形の製作を体験した。実際に体験してみると道具の使い方が想像以上に難しいと感じた。また使用する道具も多く個人で気軽にできるものではないと感じた。 体験を踏まえて、講師による指導のもとで気軽に製作体験ができる体験会2023-01-23
87上田の魅力と活性化上田の魅力と活性化 単元3を通して、塩田平地域は「信州の鎌倉」と呼ばれ、多くの寺院や文化財、ため池など様々な魅力があることが分かった。しかし、活性化を考えたときに、オシャレや写真映えなどに興味がある若者からすると、現在の塩田平にあまり興味が湧かないと感じた。  そこで、ため池を活用した花火を打ち上げやイルミネーション、夜桜や紅葉をライトアップすることで若者を呼び込めると考えた。広いため池では、スワンボートのような足漕ぎボートを設置することで、若者だけでなく親子も楽しめると考える。  また、生島足島神社で祭りを開催したり、マルシェのようなものを開いたりすることで、老若男女問わず楽しめる場所になると考えた。マルシェでは地域の特産品などの宣伝を行うことも可能である。  以前、「信州上田レイライン線」2023-01-23
88上田市立博物館上田市立博物館上田市立博物館に行き真田幸村(信繋)について学んできました。 真田家は織田、武田、豊臣家など仕える先を転々としており、豊臣家に仕えた時期が一番長かったそうです。 徳川家と豊臣家の関係が悪化してきた頃、幸村は豊臣家に誘われ、大阪城入りをします。 そこで真田丸という砦を城南に作ります。 その後に勃発した大阪冬の陣で徳川を破り、幸村は武名をあげました。 しかし、その後に起こった大坂夏の陣で徳川、真田両軍とも力尽き、幸村は命を落としました。 幸村がどんなことを行った人なのかよく理解していなかったので知ることができてよかった。 このほかにも上田の歴史を様々な面から見ることができて勉強になった。 また、十勇士の中で穴山小助、海野六郎などは実際に絵があったため 存在する人物であったと考え2023-01-23
89まとめまとめ上田には歴史が詰まっている。 私は長野大学に入学してから上田市とのかかわりが増え、より感じるようになった。 例えば、上田城。石垣やお城の後はそこに時代を感じさせる。神社やお寺も意外と上田にあったりする。 上田駅を出てすぐの商店街は今も昔もそこに存在している感じがする。少し歩けばいろんなお店があって、昔ながらのものもあれば最近できたおしゃれなお店まで、点在している。 上田市がどうやって歴史をつないで今の姿になっているのかを私たちは肌で感じながら暮らすことができる。 それこそが上田にある魅力の一つではないだろうか。2023-01-23
90海野町レトロ写真館 活動報告海野町レトロ写真館 活動報告1.研究目的 上田市にある海野町商店街には、人情味溢れる店主が集まり、どちらの店主にお話を伺っても優しい対応である。また、祇園祭や七夕祭りなどのイベントをきっかけに、大勢の人々で賑わっている。しかし、大型店舗の出店増加や急速な高齢化と人口流出による客数の減少などにより、新しい取り組みを行う機会が少なくなり、魅力や集客力が低下しつつある。同じ街でも商店街に住む人とマンションの住人とのコミュニケーションが取れていない現状である。そして、商店街の人々が好きだった界隈の空間を忘れ、変わってしまった街の風景に慣れてしまっている。 そこで、海野町商店街の昔の風景の様子を今の景色と合わせてみることができる思い出の写真を地域に共有することで、人情味溢れる町の個性が表現され、地元の人々が魅力の2023-01-23
91農業放棄地を減らしていくためには農業放棄地を減らしていくためには上田市には農地が沢山あるのになぜ農業が盛んではないのだろうか。 我が家にも農地があるが現在農業をしているのは所有する農地の半分にも見たいない程度である。このような農業放棄地が発生してしまっていることが農業が盛んになっていくうえで邪魔になっているのではないだろうか。 農業放棄地が増えていく原因の一つに農地に関する法律があると考えた。そこで農地法を調べたところいくつかの問題点が見つかった。 ・農地の売買や貸借に農地の所在する市町村の農業委員会の許可が必要な点。 ・農地売買の許可を得るのに農地の権利取得後の経営面積に原則として都府県50a北海道は2ha以上になること(例外あり) ・農地を取得する個人またはその家族等が取得後に行う農業事業に必要な農作業に常時従事しないと農地を買えないこ2023-01-19
92上田のelaboration上田のelaboration 上田の一番の課題は地元の住民が上田市の歴史についての姿勢が問題あると考えた。交通の不便さ、若者へのアプローチの弱さ、そこから繋がる上田の地の魅力が広く知られていないなどの課題がいろいろある中、地元理解という土台が無ければ上田市が発展するにあたり、観光客の理解が深まらず上田の魅力が伝わらないと考えた。これより、上田の課題を地元理解に絞り、なぜその課題が提起され、その課題をどう解決させていき、どのような結果になることが理想的であるかを探究し提示することを目的とする。  例を挙げると、「真田丸」というドラマが始まり、真田幸村が大いに話題を呼んだ。上田市はその話題に際して、上田城を築城したのは真田昌幸であるという真実を広く公表することなくイベントや観光客を迎えた。さらに現在、上田2023-01-19
93前川ゼミ最終まとめ 上田の課題解決と魅力発信前川ゼミ最終まとめ 上田の課題解決と魅力発信前半のゼミ活動で行った町歩きを通して上田市について魅力と課題の両方を感じることができた。 まず私がゼミ活動やこれまでの日々で感じた上田市の魅力は以下のものがある。 ①分野別で名所が多い 例旅行→別所温泉  歴史→上田城  ウィンタースポーツ→菅平 ②美味しい食 ③学生へのサポートが手厚い  例町キャン ④自然が豊か 一方で感じた課題は以下の通りだ ①別所線の利用者の少なさ  原因→本数少ない、運賃高い  私も悪天候、帰省時以外めったに使わない ②情報が伝わりにくい  店側、イベント主催側からの発信が少ない ③商店街の元気が無い  例海野町商店街で若者を見ることが少ない ここで考えた課題の解決策がイベントの活性化である 例えば別所線をつかってスタンプラリーなどのイベントを行うことで利2023-01-19
94交通機関を使って上田観光を!交通機関を使って上田観光を!上田市での交通手段は主に車、電車やバスなどの交通機関、タクシーなどがあります。その中でも特に、電車やバスといった交通機関は、たくさんの人々が利用し、日常生活に必要不可欠となっています。 上田市の主な電車には、しなの鉄道と上田電鉄別所線があり、上田電鉄別所線は大学前にも通っているため、長野大学の皆さんも普段から利用しているのではないかと思います。上田電鉄別所線は上田駅から別所温泉駅まで続いており、上田市屈指の観光地である別所温泉に気軽に行くことができます。上田電鉄別所線の車両には、1月1日~30日限定の車両「謹賀新年 HM」、「れいんどりーむ号 HM」、「真田傍陽線開業95周年 HM」「真田傍陽線廃止50周年 HM」、「さなだどりーむ号 HM」などのラッピングが施された特殊車両があり、外見でも楽しむ2023-01-19
95前川ゼミ活動考察前川ゼミ活動考察 今まで上田市の外で生活をしたことがないので、客観的な視点ではないかもしれないが、自分なりに上田市について感じたこと、考えたことをまとめる。上田市というのは上田城の城下町であったり、北国街道が通っていたこともあり、歴史がある町である。気候も安定していて、自然も多い。スキー場やキャンプ場、温泉も多く、車があれば日帰りでスキーや温泉を楽しむことができる。新幹線も通っており、東京など首都圏へのアクセスも良い。そのせいか、近頃では海野町商店街などに若者向けのバーや、都会志向の洒落た店が増えてきた印象がある。加えて県外からの移住者向けかと思われる高級マンションも増えてきた。一時的ではあるが真田氏の本拠地が上田城ということもあり、NHK大河ドラマ「真田丸」の人気によって上田が賑わっていたこ2023-01-19
96上田市に来てもらうには上田市に来てもらうには課題の提起 上田市には多くの魅力があるが、長野県にあるほかの観光地より観光客は少ない。うまく魅力を伝え多くの人に来てもらうためには。 上田市の現状 ・魅力は多くある。 ・1回限りの人が多く2回目以降訪れる人がほかの市の名所に比べて少ない 何を探求するか ・どうしたら多くの観光客に来てもらえるか。 何をすべきか ①うまく魅力を伝える。 ・SNSによる紹介 ・面白かったりインパクトのあるご当地PRてきなもの ・ここでしか食べられないもの、買えない ・デジタルマップの活用、簡単に移動時間やツアールートを作れるような機能を作ってみる →まず上田市に来てもらうための工夫そして2回目以降も来たいと思ってもらえるような工夫が必要 ②上田市内の交通アクセスをよくする ・路線バスや別所線の値段をもう少しお手2023-01-19
97上田市の課題(途中経過)上田市の課題(途中経過)①歴史を伝えるアプローチが小さい。 ②若者を外であまり見ない。若者離れの傾向 ③交通手段の薄さ(私鉄への依存、ばすのすくなさ) ④上田市の住民が上田市を理解しきれていない。 ・なぜそうなるのか ①過去・歴史のエピソードを伝えるための広告が少なく、その魅力を押し出せていない。 ②若者向けのイベント・建造物が少ない。また、若者だけでなく高齢者向けの娯楽施設が少ない。 ③広大な土地の使い方の工夫が足りない。 ④交通手段の普遍化 ⑤駅、駅周辺の過疎化 ・何を探求するか ①歴史を持つ建造物を世の中に伝える方法の工夫 ②上田の環境に適合するイベント、娯楽施設など ③交通手段の活性化のための交通手段(電車又はバスなのか)そしてそのルート(どこを運行するのか) ④若者を離れさせず、若者が進んで将2023-01-19
98前川ゼミ まとめ前川ゼミ まとめ課題の提起 大学に進学するにあたり塩田平のアパートを借りた。半年ほど生活してみて上田市の中心地や海野町商店街と比べてあまり生活しやすいとは言えなかったため。 なぜそうなのか 田んぼやため池が多いため土地が確保できないので生活に必要な施設などの距離が遠い。 探求の目標 どのようにすればもっと住みやすい街にできるのかを見つける 「塩田平を住みやすい街に」 塩田平は上田駅周辺と比べて非常に住みにくく感じた。スーパーなども遠く24時間営業ではないし、スポーツ用品店などもアリオまだ行かないとない。それなのに電車の本数も少なくバスもないためどこに行くにしても車が必要となってくる。そのためまだ免許や車を持っていない人や免許を返納したお年寄りなどにとっては非常に生活しずらくなっていると思2023-01-19
991/12日 調査まとめ1/12日 調査まとめ上田と「山本鼎」 自由画運動 山本鼎(やまもと かなえ)は愛知県岡崎市出身の画家であると共に、上田を拠点に「自由画運動」「農民美術運動」の先駆けとなった人物である。愛知県出身の山本であるが、父親が小県郡神川村大屋(現在の上田市大屋)に病院を開業したことをきっかけに上田と縁を持つこととなる。1912年にフランスに5年間の留学へ向かった山本は、日本に帰国後、児童画の改革を目指した運動を起こした。山本の言葉に「自分が直接感じたものが尊い」というものがあるが、当時の児童画の指導方法は「お手本の模写」が主流であった。山本はこれに対し、絵の技術や方法が重要なのではなく、自分の目で見た物、感じた物を描くことが児童の発達にとって大切であると説き、1919年に神川小学校で第一回児童自由画展覧会が開催され、2023-01-12
100上田市マルチメディア情報センター上田市マルチメディア情報センター上田市マルチメディア情報センターは、長野大学の少し上に位置している、情報化を総合的に支援する環境が整っている施設である。 ●施設・概要 学生は無料で使用できる学習スペース、3Dプリンターがあり、アニメや映画などを250作品以上見ることができるPCが置かれていた。また子供や大人も活用できる学習空間がある。 他には教育支援や無線LAN有線LANの管理など地域にも貢献している施設である ●上田資料映像鑑賞 上田市の50年前の資料映像を見させていただいた。 そこでの貴重な映像を紹介する。 ●「上田つむぎ」信越放送 1964年1月16日放送/上田紬/私たちの周辺 人手を要する養蚕は機械化をする必要はあるが、あまりにも機械化をしてしまうと伝統が欠如してしまう可能性があるとのこと。 手織りのものは個人に合わせて作2023-01-12
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